読後感 苦海浄土

石牟礼道子著、「苦海浄土」(講談社文庫)を読みました。

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

昨年は水俣病の勉強をテーマに色々な本を読み講演会に行きましたが、
その締めくくりの一冊としてこの本を読みました。
読後、水俣をめぐる議論がいまだ収束できない理由が少し見えたように思いました。

環境関連の学問に関わる人が水俣病について勉強する時には、たいてい以下のような説明を読むのではないでしょうか。
水俣病とは、昭和28年ころから30年代にかけて熊本県水俣湾周辺で発生した有機水銀中毒による中枢神経疾患であり、
四肢麻痺言語障害がおこり、求心性視野狭窄、眼球運動異常、耳鼻科的平衡機能障害等を生じるものである。」
でも、このような記述では水俣病の発病メカニズムや症状は分かっても、
なぜ裁判が長期化・複雑化し、50年にもおよぶ補償交渉が行われているのかは分からないのではないでしょうか。
50年という時の経過は、本来であれば心落ち着かせるに十分な時間ではなかったのか。


私が参加した講演会でも、水俣では現在「もやい直し」という運動を続けているという話がありました。
「もやう」とは船と船をつなぐということを意味するそうで、
もやい直しとは引き裂かれた水俣という地域をもう一度一つにつなぎなおそうとする運動です。
なぜそのような運動が今もって求められるのか。


石牟礼氏の著書には、水俣病によって、チッソという会社によって、そして地域住民によって、
水俣の人々の暮らしが、心が引き裂かれていくさまが描かれています。
病と貧困と地域内の差別とが入り混じる想像を絶する苦しみの中で生きる人の姿です。
このような形で傷つけられた人の心を、その後の裁判や補償交渉の過程がさらに粉々に打ち砕く。
同じ地域に住む人々の関係も引き裂かれていく。
散り散りに砕け散った水俣に住む一人一人をもう一度「もやう」ことは、そう簡単なことではない。
そのことがこの本からよく分かるような気がしました。


解説によれば、本書は聞き書きの体裁をとっているが、厳密には聞き書きといえるものではないとのこと。
一人ひとりの人物が石牟礼氏にいわば「乗り移って」彼らの言葉を語っているのだと。
厳密には聞き書きでないことに不満を覚える人もいるかもしれません。
しかし、あらゆる記録というものは、事実と感情を整理し、それを語る手段を持つ者によるものであり、
そのような手段を持たぬ者の言葉は永遠に埋もれていく運命にあります。
第二次大戦の戦中・戦後の記録を残す人、またインタビューに答える人も、どうしても学歴が高い人に偏ってしまうといいます。
水俣で苦しんできた人々は多くが貧しく、語る術を持たない。
でも彼らと同じ時同じ場所で生きてきた石牟礼氏は彼らの心に難なく入り込める。
彼らの気持ちを自分の言葉で語ることができる。
そう考えると「石牟礼巫女説」が出てくるのもなるほどと思います。


学問として環境問題を学ぶ人間が忘れてはならないのは、苦しんでいる人々の実際の声のはず。
それを受けて自分の研究の中に昇華していくことが真面目な研究者の態度のはずです。
今年はフィールドワークを増やして、自分の目で見、耳で聴き、考えていきたいと思います。